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水無月

「これが私の、祈りのかたち。」
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・一日
 こけしが一つ、完成した。
 先月末は余裕ができたので、少しずつ準備を進めていたのが功を成したか。しかし喜んではいられない。真の戦いはここからなのだ。今日、既に依頼が入り始めている。恐怖と倦怠感、ほんの微かな期待を抱きながら、私は明日も生きて行かねばならないのだ。
 籠城の準備は整っている。素材の発注も済ませた。受注制限の報せも貼り出しておいた。いつも通りだ。あとはひと月、戦うだけ。やるしかない。
 水無月はこけしの季節だ。注文が大量にやってくる。私はこれからひと月、只管こけしを作り続けなければならない。これは戦いでもあり、礼拝でもある。私にとっては避けられない勝負であり、避けたくない楽しみである。この時が来た以上、私に選択肢はない。
 兎にも角にも、今年もこの季節がやって来た。願わくは、一ヶ月後の日報で再び平静を取り戻していられますように。

 今日は、もう休もう。万全の状態で挑みたい。

・二日
 本格的にこけし作りが始まった。毎年のことだが、まずは感覚を取り戻すことから始まる。平時にはこけし作りの依頼、ましてや大量発注などされることもない。一回で人生一回ぶんはあろうかという量のこけしを作ろうと、その作業が一年に一度しか行われないことに変わりはないのだ。
 また、通常営業の片手間に製作していた昨日のこけしと違い、今日からは総てのリソースをこけし作りに割くこととなる。作業の行程も規模も全く違うのだ。昨日までの私は当てにならない。
 などと記したが、あの壮絶な死闘は魂に刻み込まれているとでもいうのか、半日も作業をすれば従来のペースを取り戻すことができた。充実感と共に、微かな虚しさが心を過る。しかし躓いている場合ではない。進むと決めたら、後戻りは出来ないのだ。
 私は決意を新たにし、一日の疲れと汚れを雨のようにぬるいシャワーで洗い流した。あと二十八日。戦い抜いてみせる。

・三日
 些細なミスをした。頭が重い……今日はもう寝る。

・四日
 どうしても序盤は気が緩みがちになる。あれほど強く決意したにもかかわらず、昨日は寝不足で体調を崩しかけてしまった。月初だったので何とかスケジュール調整を行い、体調を整えることが出来たが、一歩間違えば取引先に迷惑をかけるところであった。二度とこんなことがあってはならない。今日も念の為、早寝しておくことにしよう。
 作業にそれ程遅れはない。大丈夫のはずだ。

・五日
 第一群の完成が近づいてきた。後は細かい装飾を施すだけだ。
 しかし、作業効率を考えると仕上げは最後に纏めて行った方が良いのだ。よって明日からは第二群の製作に入ることとなる。
 只管に製作を繰り返す最初の段階は、地味な作業が只管続くだけなのでそれ程辛くもない。単純作業が延々と続くことは苦手だと言う人もいるが、私は性に合っているらしく無心でどこまでも続けられる。徐々に効率化されていくことも実感でき、そのことに楽しさすら覚えるのだ。
 問題は仕上げの段階だ。効率化のために仕方がないとはいえ、只管にこけしの、あの絶妙に心をざわつかせる装飾を、一日に何十個、何百個と作り続けていく……これを書いている今、思い出しただけでも僅かに背筋が震えた。
 とはいえ、今それを憂いても仕方がない。明日も作業は続くのだ、休めるうちに休んでおこう。

・六日
 自分でも驚くくらい、順調であった。今年はまだ二回目だというのに、既に作業ペースが第一群とは比べ物にならない。これも去年までの積み重ねが活きているということか。
 作業中思わず、笑みがこぼれた。徐々に自分の中で新たな能力が身についていき、視野が拡がり、自信と意欲が沸き起こるこの感覚。これを愛しているからこそ、私はこの仕事を始めたのだ。前は作れなかったものが、前は難しかったことが、当然のことの様に自分の能力になる。これがあるからやめられない。
 楽しい。
 ほんの微かに、後ろ向きな気持ちも心を過るが、今はこの気持ちを噛み締めながら仕事を続けるとしよう。明日は半休だ。

・七日
 予定通り、作業を午前で切り上げて午後は休息をとった。とは言っても、軽く散歩に出てこけし以外の物を簡単に作った程度だが。
 いくら繁忙期とはいえ、休みなく働き続けては心身ともに異常をきたしてしまう。休める余裕があるのなら、いつも通り週に一度は休んでおくべきなのだ。どうせ、仕上げの段階に入れば休む余裕などない。束の間の休息を心行くまで楽しんだ。

 この純粋な高揚感が、自分に食い殺されてしまうかもしれないからこそ、帰るべき場所を見失わぬよう、私は深く胸に刻み込むのだ。

・八日
 第二群が完成した。これならば想定通り、十日過ぎには仕上げの工程に入れるだろう。入ってしまうだろう。
 仕方のないことではあるが、やや気が重くなる。しかし、逃げるという選択肢はない。それは強制力でもあり、私にとっての望みでもある。乗り越えて糧になるような障害でもないかもしれないが、だからこそ私は乗り越えたいと、強く願うのかもしれない。
 今日手を付け始めた第三群が形になれば、いよいよ仕上げに入る。命綱の長さが不明なまま飛び降りるような胸の高鳴り。この心臓を揺らす、一見矛盾したような感情こそ、「生きる」ということの本質なのかもしれない。
 しかしなにがどうあれ、今の私はこけしを作るのみだ。

・九日
 第三群が概ね出来上がってきた。これだけあれば、想定を少し上回る発注が来ても量自体は問題なく揃えることが出来るであろう。余ったのなら雑品屋に売り付ければいい。……原形を留めていなければ、引き取ってくれるかは怪しいが。
 たとえどんな精神状態であろうと、自らが作り上げた作品を壊すような真似はしない私だが、しかしそれを魔改造して、見たこともなければ使い道もない、名状しがたいなにかを作り上げてしまう可能性は否定できない。そんな状態になる前に事が済むのが一番ではあるが、いつも思い通りになるとは限らない。寧ろうまくいかないことの方が多いのだ。
 運命は優しくない。それでいて、残酷すぎもしない。それを理解した上でどう動くか、どのような心構えをするか。それが重要なのだ。最悪ばかり前提に置いてもうまく歩けなくなるだけだが、想定しないのは不慮の事故を招く。奈落を見据えながら、橋を渡り切る術だけを考える。それくらいが丁度よい塩梅だと、私は考えている。その思考自体、安定して行えるわけでもないのだが……。

 妙に長く書いてしまった。強がってみたところで、私はこれからのことを恐れているのだろう。あの終わりのない暗黒を叫びながら駆け抜けるような感覚が、恐ろしくて堪らないのだ。本当だったら逃げ出したい。行わなくて済むのなら、私は関わりもしなかったであろう。
 だが、私の意思が……否、寧ろ生き様とでも呼ぶべき心の部位が、立ち向かうことを選んだのだ。千切れそうな程の吐き気と苛立ちを享受しながら、這いつくばって進む道へ、私は自らの意思で飛び込むのだ。

・十日
 予定していた分は全て形になった。いよいよ、仕上げの段階に入る。
 この作業も一年ぶりなので、まずは同じように感覚を取り戻すところから始める。だが、ある程度大雑把でも形になる今までの工程と違い、ここからは緻密な調整が必要になってくる。描かれた部品がほんの少しズレるだけで、彼らの容姿は別人になってしまう。完璧な理想など存在し得るはずもなく、些細な歪みが崩壊に繋がるわけでもないのだが、しかしそこは職人として、可能な限り求められた形を再現するべきだろう。それが礼儀であり、誇りにもなり得るのだ。
 いよいよ深淵は、私の目の前で大口を広げている。あとはこの漆黒へ勢いよく飛び込むのみだ。踵を返したところで、膨張する闇はいずれ私を一飲みにする。たとえ散る運命だとしても、胸を張れる最期でありたい。自己暗示に近い、そんな言葉を飲み込んで戦場への道を一歩、踏み出す。

・十一日
 仕上げに入り始めた。具体的には塗装や蝋塗りなどである。塗装。これが難関なのだ。作業自体はそこまででもない。思わず自惚れてしまいそうなほど順調に感覚は戻っている。余程の油断か疲弊がなければ、失敗することもないだろう。
 問題はその疲労である。昨日記した通り、ここからは大雑把な作業は許されない。複数の個体を纏めて作業することなど以ての外だ。一体一体に、魂を込めなければならない。私はこの人形に命を吹き込むことを任されたのだ。依頼者の心算が如何であろうと、私に根付いた誇りと忠誠は一切の妥協を認めない。常に全力で挑む、そのことがさらなる成長にも繋がる。
 しかし当然、そんな状態で細やかな作業を続ければ尋常ではないほど疲弊することとなる。一日二日であれば兎も角も、これから二十日近くはこの作業が続く。これを書いている今も両腕は小さく震え、首は端末の画面へもたれ掛かっている。早く休んだ方が良いのだろう。だが、漠然とした感情が私を微睡みから遠ざける。身体は重苦しく項垂れるが、その疲労が心へ沁み出そうとするのを、得体の知れない何かが堰き止めている……。

 否、本当は分かっている。肉体と裏腹に精神が睡眠を拒否する理由も、発条の切れかけた身体で長々と日報を書いている理由も、自分の思い通りに四肢を動かせない理由など、今の私には一つしか考えられない。
 だが、それを認めたくないからこそ、私は気付かぬふりを続けるのだろう。認めてしまえば、呑まれてしまう。「それ」だけからは目を背け、全力で逃げることしか、私が平穏無事にこの聖戦を生き残る術はないのだ。
 それでも、少しずつ心に染み出した黒が、躙り寄るように拡がるのを少しずつ実感し始めている。逃げるから追われるのかも知れない。しかし足を止めれば一瞬で喰われてしまうだろう。私には選択肢などない。腕を捥がれようが、足が千切れようが、胸を刺し抜かれようが、這い蹲ってでも進むのみだ。

・十二日
 今日も塗装だ。塗装。こけしの塗装中、徐々に表情が産まれ行く彼等は事が終わるまで黙って私を見つめ続ける。中途半端な現実性を持ったその視線は静かに、だが確実に私の心の奥底まで潜り込んでくる。そうして人間性とやらでひた隠しにしていたむず痒く息苦しい感情を穿り出そうとするのだ。漠然とした虚無から産まれた感情が、本能的に訴えかけるその瞳によって増幅され、揺さぶられて表面化する。
 そうなればもう、誤魔化すことすらできなくなる。如何に私がどう思おうが、現実として精神は揺らぎ、やがて身体へとその影響を及ぼし始める。荒くなる呼吸、歪み始める視界、安定を失った手先。見るからに全身で「恐怖」を体現していた。
 私は恐怖しているのだ。今のこの状況に、早くも終わりが見えなくなりつつあるこの作業に、絶妙な不気味さでこちらを見つめ続ける木人形の集団に、そう、こけしは怖いのだ。かわいいなどと宣う人もいるが、この無理矢理継ぎ接ぎ合わせたような、現実感と非現実感が入り混じる姿に恐怖以外なにを感じられようか。人として見ても人形として見ても中途半端なのだ。得体の知れなさは生命の本能に訴えかけ、背筋から蛇のように這い上がり静かに首へ纏わりつく。微睡みに錯覚しそうなほど緩やかに、背後の闇へと引き摺り込まれていく。本能が動きを止めようとする。理性は必死にもがき続ける。
 考えてみれば当然のことかもしれない。私は恐怖に陥ることを避けようとしながら、その感情原理こそ「恐怖」であったのだから、そこから逃れることなどできるはずもなかったのだ。
 しかしまだ終わりではない。感情が囚われようともまだ身体は動く。心は折れていない。脚だって腕だって失っちゃいない。絡みつく鎖を噛み千切ってでも、私は前に進む。

・十三日
 こけしが私を見つめてくる。怖い。今作っているこけし、仕上げ待ちのこけし、納品待ちのこけし、作業場にいる全てのこけしたちが私を静かに睨んでくる。怖い。得体の知れない薄笑いが、四方八方から私に視線を浴びせてくる。怖い。仮にそっぽを向かせても、後ろを向いた途端その無防備な背に不可視の棘が刺さるのを感じるのだ。怖い。
 作業が進み、命を手にしたこけしが増えるほど、その圧は重く広くのしかかってくることを感じる。怖い。既に恐怖に囚われている私の心は、より深くより強く押し潰されていく。怖い。感情は連鎖し、より暗い闇の中へと飲み込まれていく。怖い。あれ程必死に避け続けてきた概念を完全に認め、呑まれている。怖い。それが火種になりもう一つの恐怖も頭を擡げる。怖い。怖いよ。

 折れるわけにはいかないなんて、言ってはみても……やっぱり、辛い……

・十四日
 苦しい、苦しい、苦しい!
 恐怖が身体と心を駆け巡り、際限なく増幅される。臨界を超えた恐怖が! 苦しみに! 悲しみに! 怒りに変わる!
 なんでこんな! 苦しみに満ちた作業など! やらされなければならないのか!
 私は! 苦しめられるためにこの仕事を始めたわけじゃない! 自分の手から多彩なものが産まれていく喜びを! 出来ないことが出来るようになる喜びを! 世界を少しずつ変えていく高揚感を! 感じたいから! 私は物を作るのだ!
 こんな不気味な人形に囲まれるためじゃない! やめろ! その紛い物の目で! 私を! 見てるんじゃない!
 瞼を閉じてもあの不愉快な目線がチラついてくる! 呪うつもりか! ふざけるなよ! 全てが終わるその時まで! 私は屈しないからな!

・十五日
 夢を、見た。

 目が覚めた時、私は自覚できるほど憔悴していた。慌てて作業場に転がり込んだ。昨日の夜と何一つ変わらない作業台と木人形の大群が、私を出迎えた。

 私の瞳から、とめどなく涙が流れていた。それが安堵なのか、後悔なのか、悲観なのか、それすらわからなかった。

 私には、ただ黙々と、作業を続ける以外に選択肢はなかったのだ。
 夕刻には、涙も止まっていた。

 半月、食べ続けた簡素な冷凍保存食が、今日はやけに美味しく感じられた。

・十六日
 でもそこで、問題が生じるんだよね。効率化っていうのは製作業に於いては理想ではあるけれど、物を作っていると時には、いわゆる職人技というかね、感覚による緻密な調整が不可欠な部分っていうのに出逢うことがあるのね。その細かい技巧とシステム化された作業というのは、両立するのに物凄く鍛錬が必要なのね。それこそ、何も考えず無意識に身体を動かせるくらいに。その無意識の動きも、悪い癖がついてしまえば望んだ効率化には辿り着けない。日々の作業を、研鑽を、深く自分の頭で考えながら真摯に取り組み続けた人だけが辿り着ける境地と言えるかな。
 理想を得るっていうのは、簡単じゃないし誰でも成し遂げられることじゃない。だからこそ輝いて見えるし、到達したときには途轍もない達成感で満たされるんだ。
 自分の存在価値って、自分の実感でしか真には測れないから。だからこそ、確実に誇れるような物を目指したくて私h

 急に誰と喋ってるんだ?

・十七日
 トーテムポールが出来ました!

 不気味さ五割増しという感じだ。怪電波とか発しそうで大変宜しいと思う。宜しくない。
 どう考えても私の精神に異常をきたすので、一通り笑った後は分解しておいた。

 てめえなに笑ってんだ! こっちは真面目に作業してるんだよ! 馬鹿にしてるなら帰れ!

 私の家はここだった。

・十八日
 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してはるころしtれやうrrこたうあろしryてあおたやrじおろsじゅとjw

 殺してやる。

・十九日
 大変品のない文章を書いてしまいましたわ。
 辛く険しい作業であるからこそ、心の平静には気を配りませんといけませんのに。私としたことが、少々気が立ってそのことを失念してしまったようですわ。
 確かに、このお人形たちは随分と憎たらしく、心にざわめきを与える容姿をしてはおりますわ。しかし、そのような上辺の感覚に囚われることなく、請け負った仕事に対して全力で真摯に取り組むことが大事でしてよ。そうすれば、今回の様に困難な状況にあったとしても平静を保つことの助けとなるはずですわ。そうと決まれば明日も上品かつ優雅に参りましょう。

 いや自分で書いてて腹立つからダメだ。

・二十日
 ここにきて追加注文がきた。繁忙期なので仕方がないとはいえ、このタイミングでの増産は険しいものがある。しかも想像以上に量が多く、用意していた素体では足りないので急遽製作からやり直すこととなった。念の為工具は仕舞っていなかったことが幸いか。
 製作作業は木材の加工から始まる。程よい大きさに切り分け、鉋掛けをする。この鉋掛けが私は好きだ。小気味良い音を立てながら木塊が削れ、徐々に整った形になっていく。少しずつ完成へ近付く過程が美しい。しかしなによりも素晴らしいのが、この音だ。
 木が少しずつ削れて行く際、細く長い音が工場に響き渡る。滑るような空気の振動は私の耳へ潜り込み、優しく擽る様に鼓膜を揺らす。頭の中に響いた囁きは染み入る様に拡がり、脳の奥深くを撫でるのと並行して首筋を伝い、背筋をなぞる様に伝っていく。心地よく甘いこそばゆさが、私の身体を満たしていく。再び、同じリズムで音が奏でられる。余韻の残る身体の芯へと、再び悩まし気な振動波が掻き入る様に飛び込んでくる。直前よりも僅かに強く、温かい波が身体を泳ぐ。一定のテンポで只管に同じ音を響かせ続ける。徐々に強くなる心地よい波は、やがて気持ちの良い痺れへと変わり、それでも手を止めることなく、響く波に意識を傾け続けると、身体が危うい幸福感に包まれていく。
 四肢が細かく震え始め、呼吸は荒くなり、鼓動は煩いほどに早く打ち続ける。これ以上続けてしまえば、間違いなく今この状況には望ましくないことが起こると、微かに残った理性は警鐘を鳴らしている。しかし音波によって時間をかけて愛撫された私の身体は、普段この街で生きていく限りは、工芸人として働き続ける間は、絶対に意識されることのない性の本能が、抗いがたい強い欲求を私の心にこれでもかと強くぶつけてくる。平時目覚めることなどないからこそ、冬眠から目覚めた野生動物のように、欲望を強く煽り理性という名の心の鎖を一本ずつ解いて行く。
 最早自分の身体がどこにあるのかすらわからず、勝手に動く腕が奏でる静かな響きに、自ら犯され続けるだけになっていた。理性と本能は尚も綱引きを続けていたが、今となっては勝敗は決し、その決着の瞬間がいつになるのか、それを待つのみにまで深く深く、堕ちていた。
 そして、視線も覚束なくなり、最期の一押しが私の中へ入り込んできたとき――

 ――呼び起された本能は、その「一回」で収まるはずもなかった。今、これを書いている間も残された熱が私の身体を蝕んでいる。それは冷めることなく、寧ろ記録のために事の顛末を思い出しただけで、私の身体は、少しずつ、熱が上がり、からだが、あまくしびれて、ぴりぴりと、ここちよ、ああ、きもちyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy

・二十一日
 いや
 馬鹿じゃねえの?

・二十二日
 今日の夕飯は玉葱でいいです。
 でも、寒天の甘酒煮でもいいです。

 湿布がお出しされました。腰の痛みが引いてゆきます。

・二十三日
 もしかしたら私は天才かもしれない。
 ここにきて、才能が開花したのかもしれない。
 いや、そうに違いない。私は今、強い実感を抱いている。

 この推測が正しいことを証明するため、明日は少し試してみたいことがある。恐らく、いや、確実に成功するはずだ。明日が楽しみだ。

・二十四日
 そんなことなかったわ
 悪い夢でも見てたってことで忘れよ

・二十五日
 流石に身体の節々が痛く、倦怠感もある。時間に余裕があるわけではなかったが、このタイミングでまた体調を崩しては元も子もないので少し散歩に出ることにした。
 静かに、緩やかで生暖かい雨が降っていた。
 いつもこの時期は作業場に閉じこもって作業をしているので忘れがちだったが、雨の多い季節なのだ。熱を持ち始めた世界を冷却するように、天から温い雫が降り注ぐ。職業柄大気への影響は気になってしまうものの、雨粒の届かないこの場所から見る薄灰色の空模様は、微かに寂しくも美しく煌めいていた。
 空を翔ける人々は大変だろうが、宙に浮くだけの我々にとっては、ただの背景に過ぎないのだ。自由な空を求め、「下」に降りることは考えていない。例え羽を抜かれた鳥であろうと、私は今の暮らしを気に入っているのだ。

 あと少し、頑張ろう。

・二十六日
 もうやだよう……疲れたよう……帰りたいよう……おうちここだよう……おかあさん……会いたいよう……こけしはもう嫌だよう……

 あっお父さんは結構です。

・二十七日
 作業中、少し眠ってしまったらしい。先週のものとは違う、倦怠感を伴う慢性的な熱が身体に満ちていたことは認識していた。しかしあとほんの数日、無理矢理乗り切ろうとしていた。事が済めば休む時間などいくらでも取れる、ほんの少しくらい……
 しかし私の身体は、そんな行軍を許しはしないようだ。一度の居眠りは僅か数分のことであったが、濁流のように沈む私の身体は幾度となく、気絶のような安らぎを求め船を漕いでいた。やがて靄のような疲労感が晴れた頃、既に一日の作業時間は終わりを迎えようとしていた。
 やり場のない焦燥感に駆られはしたが、束の間の休息を得た私の身体は軽く、思考も聡明さを取り戻しつつあった。追い込みの段階は、ただでさえ油断と焦りが心に生ずる。行程は厳しくなるが、ここで一度態勢を立て直したことは正解だったかもしれない。

 最後まで油断せず、頑張ろう。

・二十八日
 これ程のこけしが発注される背景には、宗教的視点があるという。私も詳しくは知らないが、絶妙に心を騒つかせる見た目や、名前の由来の一節などから、この木人形に信仰性を見出すものは一定数いるようなのだ。
 私は水無月の集中生産を始めてから、それなりにこけしに関しての知識を知識を仕入れている。時々取り沙汰されるその説が根拠の無い眉唾物であることも知っている。だが、信仰とは個人の己が内に生まれるものだ。仮にそれが荒唐無稽な理由であろうと、本気で崇め奉る者の意思は尊重されてしかるべきであろう。
 かく言う私も、ある種の信仰を抱いているからこそ、毎度心が折れかけながらも、水無月が来るたびにこの無茶な戦いに挑んでいるのだ。
 私が信じる限り、これは無茶な過重労働ではなく、新たな境地を目指すための聖戦なのだ。

・二十九日
 夏風邪は馬鹿がひく、という言葉があるようだ。なんとなく、言わんとしていることはわからないでもない。
 だが、今は夏ではない。梅雨だ。誰がなんと言おうと、梅雨だ。
 そしてこれは風邪じゃない。洟も出ないしくしゃみも飛ばない。風邪じゃないんだ。

 私は夏風邪などひいていない。

・三十日
 今年も

 生き延びた

* * *

 作業場の方から重い金属音が聞こえ、少女は重い瞼を持ち上げる。もたれ掛かっていた端末から身体を離し、軽く伸びをした。どうやら最後の日報を書いた直後、そのまま眠ってしまったらしい。小さな置き時計に目を移すと、日付は朔日を示していた。
 まだ重さの残る身体を引きずり、作業場へと向かう。昨日まで激戦の繰り広げられていた作業場には、彼女が予測していた通りの人物が立っていた。
「……おはよ」
 瞼を軽く擦りながら、少女は友人に声をかける。工具の整理をしていた友人は声がした方を向き直すと、淡々とした口振りで話し始めた。
「おはよう。片付けとか朝御飯はやっておくから、シャワー浴びてきなよ」
「うーん、そうする……」
「三十分で出て来なければ様子見に行くから」
 その言葉を背に受けながら、少女は風呂場へ向かう扉を潜る。間の脱衣所で、緩慢な動作で服を脱ぐと、風呂場に入り蛇口を捻った。溶鉱炉の様に熱いシャワーが、身体中に纏わり付いた疲労と汚れを洗い流していく。
 無数に降り注ぐ灼熱を全身で感じながら、少女は作業日報について思いを馳せていた。日報と呼べども、その体裁はただの日記と呼ぶにふさわしく、そもそも自営業なので業務を報告する相手もいない。それでも多忙の中、あれを毎日書き続けた理由こそ、自分が持つ信仰の証左であるし、また未来の自分への投資でもある。見るに堪えない日もあったが、そういったものこそ将来の糧となる、そう少女は確信していたのだ。
 風呂場から上がり、楽な服装で台所へ向かう。仄かに香ばしい匂いが鼻をつく。コンロの前では、友人が何やら作業を行なっていた。
「お疲れ、すぐ御飯できるよ。コーヒー飲むでしょ?」
 一瞬少女の方を振り向くと、卓に置かれた機械を顔で指し示す。静かに湯気を立てているガラス容器を持ち上げ、少女は自分のカップに漆黒の液体を注ぎ込んだ。華やかな香りを立てる小さな暗黒からは、カップを支える両手で感じているものとは違う、何処か不思議な温もりを感じられた。
 少女が少しずつほろ苦さを味わっていると、二枚の皿が卓上に出される。質素だが彩りのバランスが良い一皿が、五感を刺激し食欲を沸きあがらせる。
「食べようか」
「ん、ありがとう……いただきます」
「はい、いただきます」
 向かい合った二人は手を合わせ、揃って口にすると食事を始めた。一ヶ月もの間、簡素な食事しか採れなかった少女の身体に、喉を通して温もりと充足感が拡がっていくことを彼女は感じていた。
「相変わらず凄く美味しいよ、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
 少女は静かに幸せを噛み締めていた。この何気無い朝の一幕を、これ程までに満ち足りた景色に変貌させるのも、あの戦いを乗り越えたからだろう。深い水底から飛び出したようなこの感覚が、彼女は堪らなく好きであった。
「今日は一日お休みする?」
 食事を続けながら、友人が尋ねる。その表情はやや複雑であったが、少女はすぐに首を振りながら答えた。
「いや、午後からはまた仕事に戻るよ。いつまでも休んでるわけにいかないし」
「そう言うと思ったけれど……昨日まで大変だったんでしょ? 少し休んでもいいんじゃない?」
 友人は料理を口に運びながら、上目遣いに対面の少女を見つめる。その視線が伝えたい言葉は痛い程に刺さったが、しかし彼女はしっかりとした面持ちで答えた。
「それが私の信念だから」
「……だろうね、今日は手伝うから、無理はしないでね」
「うん、ありがとう」
 それきり二人は他愛のない話を始める。少女が閉じこもっていた間、街で起こったこと。雨による錆を防ぐため、飛び回っていた修工屋たちの話。豪雨に煽られ、不時着した小型巡視船と、ここぞとばかりに群がった雑品屋たちの話。その他、梅雨にありがちな日常の些細な出来事を、自身で体験できない少女は楽しげに聞いていた。

 午後になり、仕事の準備を始めた少女は決意を新たにする。常に揺らぐことなく、求められたものを完璧に作り上げる。そのことを信念に働いている彼女でも、感情ある者の運命として、冷静でいられなくなることもある。そうなった時、自分がとても脆くて危ういことも気がついている。
 そのことを改めて認識し、事実として受け入れること。そして、誰にも弱みを見せず「頼れる工芸人」であり続けること。その為に少女は、今年も無謀な戦いを生き抜いたのである。
「さあて、いつも通りの一日を始めようか」
 玄関のシャッターを開き、簡素な屋号札を貼り付ける。貫くような陽射しが、骨組みのような世界を照らしていた。

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あとがき
 目玉焼きすらまともに焼けなくなって早数年が経ちました。
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