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風の果ての君へ

「今こそ、”終わり”を始めよう」
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 弁当を食べている時、落としてしまった肉団子を追いかけていたらいつの間にか屋上まで来てしまった。他に行く宛もないため、扉に手をかける。
 そもそも、階段を転げ落ちていった肉団子を追いかけるのに、階段を上っていたのが間違いだったのだ。どこで入れ替わってしまったのだろう。もしかしたら、ゴルフ球の代わりに穴に落としてしまいたいほど、肉団子が嫌いであったことが関係しているのかもしれない。
 抵抗の強い扉を引っ張ると、空気の塊が顔にぶつかってくる。僅かに後退りながらも、やがて風が収まると同時に屋外へと踏み出した。眼鏡をかけていたら飛ばされてしまったかもしれない。しかし、そもそも視力は両目共に平常である。
 そんなだから、今日も朝に喧嘩別れをしたばかりだ。お互いにとって無意味でしかない関係なのだからそう珍しいことではない。向こうは物言わぬ物質なので、本当に喧嘩なのかもわかっていないのだが。
 屋上に出た少年は辺りを見渡す。平坦な造りの建物なので、壁のない屋上は無駄に広々としている。柵のある端の方へと歩いていくと、手摺に黒い布のようなものが引っかかっている。
「おやおや、君は三日前の弁当から飛んでいった昆布巻きじゃないか」
 昆布の端を摘まんで引っ張ると、僅かに抵抗が感じられた後、昆布が手摺から剥がれる。味が染みているのだ。少年の母が作った、自慢の一品である。
 少年は昆布をポケットにしまうと、再び歩き出す。折角なので、逆側の階段がある方まで歩くことにした。この建物は部屋数が多いため、建物の端から端へ移動するのも一苦労である。
 それでも、誰もいない屋上を歩くことは容易であった。ポケットに両手を入れたまま軽快な足取りで進む。べたついた感触が、左掌に広がった。
 逆側の端が見えたころ、少年の目に人影が映る。その像は、鉄柵の縞模様と重なるように佇んでいた。
 少年は人影を無視し、階段から下の階へ降りようとする。しかし、この建物は階段が二つあるものの、屋上へ出入りできるのは少年が昇ってきた側のみである。彼の立っている真下に階段は存在するが、そこに辿り着くための入り口が存在しない。
「あれっ……階段がないぞぉ」
 良く通る声で少年は独り言を言う。身体を斜めに捻って振り返ると、柵の向こう側にいる人影もこちらを向いていた。
「階段がないんだ。どこに行ったか知らない?」
 少年は人影の方へと歩きながら尋ねる。屋上の端にいたのは、髪の長い少女であった。少女は僅かに眉を寄せながら、淡々と言い放つ、
「階段なら、向こうにあるでしょう。こちらには最初からないわ」
「それは正しいとは言えない。最初から、と断言するならば最初を知らなければならない。僕らはこの建物が出来た当初を知らない」
 少年は柵に肘を置き、軽くもたれかかる。少女は短く溜息をつくと、再び前方の奈落へと目を向けた。
「屁理屈合戦がしたいのなら他所へ行って。私はあなたみたいなのに構っている余裕がないの」
 微かに風が駆け抜け、少女の長い髪を揺らす。それに伴い、甘美な香りが少年の鼻をくすぐる。シャンプーの香りと僅かな少女の体臭、そして甘辛い醤油の香り。少年は自分の左手を見つめる。昆布に味が染みているのだ。
「そうだろうとも。その場所は常に死と隣り合わせだからね。奇怪な言い回しを好むだけの変人に、構っている余裕などないだろうさ」
 少年はハンカチィフで左手を拭きながら答える。綺麗になった左手を、少年はポケットへと入れた。べたついた感触が、左掌に広がる。
「あら、奇怪な変人の自覚があるのね」
 少女はいつの間にか、縁に腰掛けていた。見上げるようにして少年に視線を向ける。
「それはそうだ。自覚しなければ生きていけないような世界で生きてきたのだからね」
 少年は体勢を変え、背中で柵に寄りかかる。視線だけが二人の間で交差する。
「へえ。それはどんな世界かしら」
 少女は興味が無さそうな声色で尋ねた。彼女が脚を前後に揺する度、そのまま身体が吸い込まれていくような錯覚に陥る。
「数多の意思が混在し、それでいて共通理解などという無理難題を求めようとする……平均化された集合意識に近しいほど、正常と呼ばれる悪夢のような世界さ」
「それは、社会というものではないかしら?」
「その通り」
 少年は声を噛み殺すように小さく笑う。吹き付ける風の音と混ざり合い、奇妙な音色となって鼓膜を小刻みに震わせた。
「ああなんと、生き辛い世の中だろうか」
「今に始まったことじゃないでしょう。集団を形成して生きる限り、一個の巨大な生命体になると考えれば、なるべくなら集団という名の自己を理解しようとするのは当然でしょう。であるならば……」
「理解しがたい未知の存在は切除するべきだ。重篤な病原になってしまう前にね」
「そう、その通り。でもね」
 少女は立ち上がると、手摺に掴まりながら少年の顔を真っ直ぐに見つめる。僅かに朱が差した茶の双眸が、空気の圧と共に少年を突き刺した。そして掌には、味の染みた昆布の感触がじんわりと広がっている。
「他人の言葉を遮るくらいなら、対話や議論ではなく弁論でもなさったら? それだけ舌が回るなら重用されるんじゃないかしら」
「二つ問題がある」
 少年は少女に近い方の手を持ち上げると、指を二本立てて彼女に向ける。掌はべたついていた。揃えられた三本の指をゆっくりと浮かせた少年はそのことに気が付き、ハンカチィフで左手を拭きながら続けた。
「まず一つ。僕は弁論というものが、なにをする分野であるのか存じ上げていない。ルゥルも知らないものに参加することはできない。そして二点目だが……」
「この学校には弁論部もなければ、弁論大会への参加を推奨する教師もいない」
 片手は手摺を掴んだまま、少女は逆の手を腰に当て小さく微笑んだ。少年はハンカチィフを仕舞いながら、軽く肩を竦めて首を左右に振る。
「イグザクトリィ。軽い仕返しのつもりかな? 僕は気にしないけど」
「対等になっただけよ。深い意味はないわ」
「対等、か」
 少年は両手をポケットに突っ込むと、数歩、柵から離れるように歩く。微かな風が、二人の間をすり抜けていく。金に煌めく少女の髪が、先程まで少年が立っていた辺りで艶めかしく舞い踊っていた。その儚げな舞踏を脇目に見ながら、少年は自嘲気味に微笑むと、隠したままの両手を軽く握りしめる。存分に味の染みた昆布の柔らかい感触が、左手の中で強く感じられた。
「君のような美しい少女と、僕のような紛うことなき変人がその程度で対等になり得るだろうか? 君はもう少し自分の価値を自覚した方が良い」
「ふうん。それならね」
 柵から少女の手が離れ、彼女は少年に視線を向けたまま、半歩奈落へと踏み出した。一瞬複雑な表情をした後に、一転して凪いだ表情で言葉を続ける。
「一見した価値が、必ずしも望んだ結果を齎すとは限らないということを考慮に入れるべきね」
「ああ、そうか。君は、僕に失望したんだね?」
 少年は余裕を見せつけるような、それでいてどこか悩みを抱えたような顔で、少女の方へと近寄っていく。その足取りは一段と軽快で、僅かに歩調を乱しながら、しかし昆布に味が染みていることは疑いようが無いほど柔らかく、それでいて散々弄り回されても殆どその身が崩れていないほどしっかりとした食感を持ち、少年は母の料理の腕前が素晴らしいということを再確認しつつあった。
「不快な思いをさせてしまったのなら謝りたい。だがね、恥ずかしながら僕は君が不機嫌になってしまった理由を……推測くらいならできるが、理解することが出来ていないんだ。君が何故、檻の外に出たがったのかも分かっていないし、先の発言は君を手放しで褒めたつもりなんだ。だがそれが、何か誤解を生んだり君の触れてほしくない部分に触れてしまったのなら……」
「もう、いいわ」
 少女は少年の言葉を遮ると、屋上の淵に足を揃えたまま、上半身を柵へともたれかけさせる。両腕の上に首を寝かせ、燃えるような双の視線で少年を真っ直ぐに見据える。
「あなたが私に不快感を抱かせようとしたわけでもなければ、上辺だけで謝っているわけでもないということが分かったわ。だから、もう大丈夫」
「そうかい? そう言ってくれるのなら気休めになるな。だが、無意識の悪意に晒してしまったのは事実のようだから、そこはちゃんと謝りたい」
「そう……それに気がつけて省みることが出来るだけで、私はあなたを評価するわ」
 そこで少女は、初めて笑顔を見せた。その笑みが自分に向けられたものではないことを少年は気が付いていたが、だがそれでも見惚れてしまう程に清らかで、なによりも柔らかな笑顔であり、その柔らかさは彼の左手を包み込む甘辛く味の染みた昆布にも匹敵するほどであり、しかし少年は、この少女を過小評価するわけではなく、寧ろ初対面であるにも拘らず贔屓目に見てしまっていることを自覚しているほどであったが、それでも母の料理の腕前は素晴らしく、そこいらの有象無象によってその価値観が揺らぐようなものではない、それほどの人物が自らの母親であることを誇りに思う程、その絶対性を信じてやまなかったのだ。
「君にそう評価されるのなら、それほど名誉なことはないな」
「そう、改めて考えると疑問なのだけれども」
 少女は姿勢を正し、少年に近付くように一歩歩み寄る。つられるように吹いた微風が、再び香しい香りを少年の元へと届けた。年頃の少女が纏う甘く悩ましげな香りと、微かに甘酸っぱい健康的な汗の香り、季節感を感じさせる澄んだ風の香り、そして香ばしく、それでいてどこか甘さも感じる、食欲をそそるように妖しく煌めく醤油の香り……少年はそのとき、改めて確信したのである。

 昆布に味が、染みているのだ。

 少年は片肘を柵にもたれかけさせると、黙って微笑み少女の顔を覗く。それを見た彼女は改めて少年に問いかけた。
「あなたは何故、私に対してそこまで高い評価を下すのかしら。私とあなたは初めて会った筈だし、第一印象で判断するには少し過剰ともいえる程に好意的な解釈をしているようだけど」
 その言葉を予測していた少年は、それでも暫し思考に耽る。その問いに対する答えは出ていたが、だからこそ慎重にならざるを得なかった。それこそがこの短時間で彼が少女のことを深く理解しつつあった証左であるし、どうやら少女もまた、それを微かに察し始めているようである。
 少年は、小さく笑った。取り繕うわけでも何かを演じるわけでもなく、ただ、素直な気持ちで笑みを浮かべたのだった。そうして右手で勢いよく柵を掴むと、思い切り跳び上がり檻の外へと飛び出した。
「理由があるとすればさ、一目見て気に入ったんだ。君という存在を、純粋にね」
「そう、でもね。最初はみんなそう言うのよ」
「大丈夫さ、少なくとも僕は、君のことを嘘つきだなんて思わないな」
 そう少年が言い放つと、少女は目を丸くする。しばし沈黙が流れた後、やや強めの風が吹くと同時に少女は笑い出した。
「はは、なんだあんた、知ってるんじゃないか!」
 先程まで上品な素振りを見せていた少女は、一転して豪快な笑い声を上げながら軽く少年の肩を叩く。少年はどこか困ったような、それでいて楽しげな表情を浮かべていた。
 彼は最初から全てを知っていたわけではないし、少なからず彼女の変化に戸惑いもあった。しかしそれよりも、ある種の嬉しさが少年の心を満たしていたし、また彼は左手に居座り続ける昆布の感触から湧き起こされる弁当への期待感が、場の緊張感が解れたことでここぞとばかりに膨れ上がってきたのを、その胃袋にぶら下がった絶妙な虚無感で感じ取っていた。
「だが、勘違いしないでほしい。僕は騙そうとしていたわけではないんだ」
「わかるよ、はは、意図はわからんが、あんたがそういう奴ではないのはわかる」
 今までの分を出し切るかのように、少女は笑い続けた。少年は黙ってそれを眺めつづける。相も変わらずポケットに入れられたままの左手は、母による自慢の一品、昆布からの誘惑を只管に受け続けていた。思い出させられた空腹感は、徐々に少年の心を期待と喪失感で侵食し始める。その度に、彼の手の中にある昆布が美味であろうことを、疑いようのない事実として反芻させるのだ。
「なあ、例えばさ」
 落ち着きを取り戻した少女が少年の顔を覗きこむ。少年は黙って頷き、続きを促す。
「もし一緒に飛び降りてくれと言ったら、あんたは私と一歩踏み出してくれるか」
 少女は笑顔を崩さず、だが揺らぎのない視線で少年を見つめる。躊躇する様子もなく、少年は右手を少女に差し出した。
「君が望むなら」
 少女は左手を差し出す。少年はその手を強く握ると、その瞬間を待ち構えていたかのように即座に淵を蹴り、奈落へと飛び出した。引っ張られた少女とともに僅かに宙に浮かんだ後、真っ逆さまに二人の身体は大地へと引き寄せられていく。少女の美しく煌めく金髪が、運命に抗うように天へとのびていく。まるで、白昼に表れた天の川のようであった。
 綺麗だ、と少年が呟いた。ありがとう、と少女は答える。
 少年は、子供のように無邪気に笑っていた。少女は、どこか悲しそうに笑っていた。
 中途半端な衝撃を受けて、二人の小さな飛行旅は終わりを告げた。暫し、二人は目を閉じたまま黙っていたが、やがて示し合わせたかのように揃って目を開く。二人は顔を見合わせると、疲れ果てたように短く笑った。
「いやあ、死ななかったね」
「はは、まさか木に引っかかるとはな……そこまで考えてなかった」
「でも、飛び降りることには成功しただろう? 命二つ分儲けたね」
「確かにな」
 二人は木の葉の合間に挟まりながら、深い溜息をつく。各々その意味は違ったが、だが確かに命が助かったという実感を、二人は共有していた。
「生き永らえてしまったし、君に提案があるんだ」
 少年は胡散臭い笑顔で少女に問いかける。
「言ってみな」
「こんな結末になったのも、何かの縁だ。僕と君とで、細やかに世界を掻き乱してみないかい」
 少年の曖昧な提案に、少女は軽く鼻を鳴らす。
「掻き乱すって、何をするんだ?」
「なんでもいい、どうせ笑われるのなら徹底的にやってやるのさ。好きなようにやって、好き勝手に笑われて、そうして常識ってヤツをほんの少しズラしてやるんだ。僕らは正義にはならないが、正義は僕らの方に傾いてしまうんだ」
「ふむ、それだけではまだ漠然としてるが」
 木に引っかかったまま少女は身体を捻ると、斜め上でぶら下がっている少年と目が合う。どこか不敵な笑みを浮かべて、少女は少年の方へと右腕を伸ばした。
「乗ってやろうじゃないか。死んだ目で終わりを待つだけの人生より、ずっと楽しめそうだ」
「君ならそう言ってくれると信じていたよ」
 少年も右腕を伸ばし、しっかりと少女の手を掴む。同時に、風が吹き抜けて木の枝を揺らした。手を繋いでいた二人はバランスを崩し、一緒になって地へと落ちていく。僅かに身体を打った二人は、小さく笑いながら立ち上がる。少年の右手には、まだ少女の手の温もりが残っていた。どこか強張っていた小さな手が、徐々にその美しさに恥じない柔らかな感触に変わっていくのを、少年は感じ取っていた。同時に、左の手には昆布の柔らかさが、そして母が自ら調合し、完璧な塩梅で昆布に味付けを施した至高の汁が放つ僅かに粘ついた感触を、はっきりと感じていた。
「名前、教えてくれるか」
 少女が身体を軽く叩きながら少年に問いかける。
「私は――。『嘘つきアリス』、その人さ」
 尋ねた少女が先に名乗り、はにかみながらも誇らしげな表情を見せつけた。少年も軽く身体を叩いてからそれに応える。
「僕は――。ただの奇怪な道化人。よろしく」
「ああ、よろしくな」
 二人は再び、握手を交わす。右手に少女の手の温もり、左手に冷めた昆布の感触を感じながら、少年は満足げに微笑む。直後、昼休みの終了を告げる鐘が校内に鳴り響いた。
「ああ、もうそんな時間か」
「なあ、君さえ良ければだが……これから共に昼食にしないか」
「は?」
 疑問符を浮かべた表情で、少女は少年を睨む。しかし彼は意に介さず続けた。
「僕はね、とてもお腹が空いているんだ。これに比べたら次の授業など些細なことだ。それにね、僕の母親はとても料理が上手で、毎日の弁当も非常に美味で楽しみにしているんだ。それを今は食べそびれている。授業を重視する理由なんか、どこにも見当たらないね?」
「はは、そういうタイプか……」
 少女は呆れたように笑うが、どこか期待の表情も浮かべていた。
「手を取ったこと、後悔したかい?」
「いいや、むしろ逆だ」
 二人は揃って歩き出す。授業が始まった校舎は、先程までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。まずは屋内に戻るため、真っ直ぐに昇降口を目指す。
「母の料理は本当に美味しくてね、特に昆布巻きが絶品なんだ。いつも少し多く持たされてしまうから、是非君も食べてみると良い」
「ああ、そうさせてもらおうかな……でもそのポケットに入ってるのは嫌だぞ」
「ふふ、バレていたか……安心すると良い、ちゃんと弁当箱の方から提供しよう」
 昇降口に辿り着き、二人は校舎に乗り込む。階段の方へと歩き出したところで、少年は自慢げに呟いた。
「自慢の友には、自慢の品を食べてもらわないとな」
 前を歩いていた少女は振り返りながら答える。
「そう呼ぶには、気が早いんじゃないか?」
 少年は軽く首を振る。
「この手に残った感触が、その証拠さ」
 少年が見せつけた両手を見て、少女は軽く噴き出す。
「あんたが言うと、そんな気がしてくるな」
 二人は並んで、階段を一歩、踏みしめる。
「ここから、僕たちの迷惑な御伽噺が始まるんだ」
「ああ、愉快な気分になってきたな」
 窓の外では、木々が風に揺らされて小さく歌っていた。

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あとがき
 原稿ファイル名が「ごろごろ昆布巻きパラダイス」でした。
 好きなお茶はジャスミンです。
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